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麻生さん、お疲れさんでした。

 投稿者:雑談君  投稿日:2009年 9月20日(日)10時36分43秒
  久々の連休である。思いついて、一言書き込むことにする。
思えば、ここへも、もう数ヶ月投稿していなかった。別段、忙しかった訳でもないが、書くことのむなしさは、いつもついて回り、そこを踏み越えて書くのは幾分かの骨の折れることなのだ。

まっ、そんなことはどうでもいいことだが、とりあえず、前回からの続きで麻生さんについて一言しておこうと思う。

衆議院選挙前後におけるマスコミの麻生さんへの論評は酷いもので、大敗北を喫した後は、それこそボロクソと言ってよい。私は、自民党がポピュリズム政治に堕し、自己崩壊を深めていく中、麻生さんは、よく保守政治を体現し、ぎりぎりいっぱいのところで適切な政策を実行したと思うので、先ずは、お疲れさんと、その労をねぎらいたい。

彼の進めてきた経済対策は、現在も景気後退に歯止めをかけているし、雇用対策についても失業者を出しながらも雇用給付等により深刻な事態を回避させている。こうしたことは正当に評価してやらねばならないと思う。

ただ、麻生さんの失敗は、就任当初、秋葉オタクのように振る舞うなど、馬鹿げたポピュリズムに陥っていたことであると思う。人気取りのための演出は、彼本来の保守主義を曇らせたし、若者には軽い存在として看做され、年配者には愚かな存在と断じられたのではないかと思う。選挙途中からやっと本来の保守主義を標榜しだして、日本の安全・安心を訴えたところで遅きに失していたし、かえって頑固者の年寄りとしてしか映らなかったのではないかと思う。

今、麻生さんが首座から降りて、自民党の後継はと見ると、寒々しいムードが漂っている。谷垣、河野などの半人前の政治家が総裁?候補として名乗りをあげているが、単なる状況主義者で、筋の通った政治思想のかけらも持たないこれらの人物のどこをとったら保守再生ができるのだろうか。

今の自民党は、その自己崩壊を早めるだろうし、民主党も到底政権維持ができないであろうから、またぞろ政界再編の動きが年末くらいから始まるのだろうと思う。

ついでだから、民主党のことについても触れておこう。民主党も、そのマニュフェストに曰く「基礎年金創設」「こども手当創設」「高速道路無料化」などなど、財源の根拠もなく、大衆に迎合した馬鹿げた政策を掲げ、選挙に大勝したら、とたんにビビッてしまって、うろうろしているのが実情であろう。

また、「脱官僚依存」などと官僚の実力も知らないで騒ぎ立てたところで、結局、政治家の愚かしさをカバーしてもらうには官僚に依存せざるを得ないことに早晩なるのだろうと思う。日本では、明治以来、官僚と政治家は同じ穴の狢であり、政治と行政の区別なんか、ちっともないのだから、「脱官僚依存」などと言ったところで空しいことを彼らは知るべきである。

もし、「脱官僚依存」をほんとうに目指すのであれば、官僚と同等の実力を持った頭脳集団を政党が持たねばならないが、今の民主党にはそうした頭脳集団を抱えるだけの実力は皆無と言ってよい。(良いも悪いも、戦後の自民党長期政権を支えてきたのは、官僚出身者が政治家になり、その人脈の中で、政治と行政とが一体?になって行われてきたことである。)

民主党の破綻は、早晩明らかになるだろうが、そのとき、目先の欲に駆られて客観的な政治判断ができなかった国民とそれを煽り立てたマスコミは、己の責任ということをしっかりと考えてもらいたいと思う。決して、「やっぱり政治は駄目だ」などと他人事のように言わないでもらいたい。
 
 

麻生さん、がんばれ!

 投稿者:雑談君  投稿日:2009年 2月 1日(日)00時01分2秒
  「麻生政権は、いまや風前の灯!」というのが今の報道トーンである。確かに支持率は20%程度まで落ち込んでいて、やれ、定額給付金は無駄遣いだとか、消費税を上げるなどとんでもないなどと批判が渦巻いている。

だが、まってくれ。今、政治家の中で少しでもまともな発言しているのは麻生さんだけではないか?

定額給付金だってそうだ。普段、税金が高いとか、政治に信用がおけないとか言っている人に限って、そんなものにお金を使うより他に使い道があるだろうなどと言っている。それって、おかしいだろう。政治不信ならば、払った税金が戻ることに何の異議もないだろうし、それを自分で有効に使った方が理屈にあっているはずだ。

それに今厳しい状況に置かれているのは庶民であろう。払った税金が戻ってくることに誰が反対するのか?もう少し素直になったらどうか?私は、給付金を喜んでいただくし、早く支給されることを望んでいる。

民主党の諸君の屁理屈とマスコミの無責任な論調に庶民が乗せられて、こうしたことに意味もなく反対するのは愚かしいと思う。彼らは、世の中を混乱させるためにたせけ動いているとしか考えられない。

消費税についてもそうだ。破綻寸前の年金・介護・医療等の社会保障を立て直すには、やはり財源として消費税の増税が必要であろう。そんな当たり前のことがなぜ理解できないのか。あてにもならない行財政改革でその財源が生み出されるなどという非現実的な議論がまかりとおるなど愚かしいにもほどがある。

もちろん、行財政改革は必要な部分は徹底してやるべきだし、その点については民主党もよくやっていると思う。だが、社会保障の安定化と行財政改革の徹底は別次元で考えるべきであるし、社会保障は何よりも安定的な財源の確保が必要であり、その意味で消費税を目的税化し、その固定財源とすることは必要不可欠なことである。

それにもうひとつ、麻生さんは現在75兆円にのぼる景気対策を打ち出しており、世界の中で日本が一番にこの危機から脱するとしているが、この主張も的を得ている。個々の中身については問題のあるところはあるが、緊急対応という意味ではほぼ合格点ではないか。

現在2次補正までは一応の結論を得たが、早く来年度予算と関連法案を成立させて、実行に移してもらいたいものだ。

麻生さんにしてみれば、選挙を意識して、庶民よりの大博打とも言える施策方針を打ち出しているのだと思うし、その点で今回の方針は納得できるものが多いと思う。そうであるにもかかわらず、その方針に無理やり難癖をつける民主党とマスコミの無責任さに一庶民として憤慨するし、そんな中、健気にがんばっている麻生さんには小さなエールを贈りたい。
 

読書三昧

 投稿者:雑談君  投稿日:2008年12月31日(水)23時35分2秒
  正月休みが9日間もあるということで、読書三昧の日が続いている。好きで読んでいるんだけれど、読めば読むほど、己の不勉強と愚かさみたいなものが浮き立ってきて、自分ながら情けないように思う。

まっ、あせっても仕方がないので、このまましばらくは「手当たり次第に」読んでいくこととし、その中で何か見えてくるのではと期待している。

知識などいくら詰め込んでもどうにもならないことは解っているが、その知識がなければ思うことの半分も表現できないことも事実であり、いつになったらそんなレベルまで自分が到達するのか?永遠にこないのかもしれないと、ふと、思ったりもする。

ただ、世の中の動きを見ていると、どうにもならないような切羽詰った状況が展開している訳で、これに対しては勉強不足とは言え、発言していかなくてはならないと思っている。これまでもそうしてきたが、自分なりにポイントを押さえて喋っているつもりでも、後で読み返すと皮相で直感的な発言ばかりのような気もする。もっと本質的な捉え方が必要だし、表現方法にも工夫が必要だと思う。

当て所のない読書三昧ではあるが、いつか我が血と肉にならんことを!
 

まともな人間はいるのか?

 投稿者:雑談君  投稿日:2008年12月29日(月)22時31分50秒
  世の中は不況である。しかし、いまいち深刻さにリアリティがない。何故だろうと思うが、これは今回の不況について誰もその本質を理解せず、解決への手法を示すことができず、ただただ現象面への対応に終始しているからだろうと思う。

マスコミは派遣労働者の首切りばかり問題にし、一向に今回の不況の本質に目を向けない。政治家も行政も、なかばあきらめ顔で、対症療法的な雇用対策や中小企業対策に終始している。

肝心な企業はどうかと言えば、これまた企業防衛ばかりに意を用いて、製造業は生産規模を縮小し様子見ばかりしているし、金融業界も評価損の処理ばかりに気をとられている。

労働者の側は、これまた情けないかぎりであるが、戦う気力もなく、被害者然として悲鳴をあげるばかりである。「連合」の会長の言い草には笑ってしまったが、「今回の失業に対して企業の側も配慮してもらいたい。」などとフザケきった発言をしている。

今回の「派遣切り」は、まるで連合傘下の組合とは関係がないかのような認識の下で、未組織労働者への恩恵的な配慮を企業もすべきだと言っているようにとれるのである。情けないかぎりだ。今の労働組合に期待などする気もないが、それにしてもここまで堕落していることに開いた口が塞がらない。

労働組合は、もっともっと先鋭的になるべきだ。傷んでいるのは何もは非正規雇用者だけではない。正規雇用者も同様に傷んでいるのだから。派遣切りにあった労働者諸君も、同情を買うような姿勢ではなく、勝ち取るべきものは己の手で勝ち取るようがんばるべきである。

日本の未来を考えると、それぞれのセクションがもっともっとがんばらなければ、ジリ貧になっていくしかないように思うのだ。
 

もう年末か・・・

 投稿者:雑談君  投稿日:2008年12月23日(火)22時35分3秒
  温暖化のせいか、ちっとも年末なんて気がしない。スキー場でも雪が少なくて商売にならないそうだ。まっ、それでも、世の中、不況の風が冷たく吹いていて、年越しの心配をしなければならないという意味では、確かに年の瀬のムードが漂っている。

いつものとおり、仕事に追われて、ここにもしばらくこなかったのだが、忘れられても困るので、雑感めいたことを思いつくまま書いておく。

円高とアメリカ経済の悪化から我が国の自動車業界は軒並み業績悪化予想を打ち出し、派遣社員など非正規雇用社員の大量解雇に踏み切った。

自動車業界には確かに逆風が吹いていることは確かだが、今回の業績悪化予想は先回りしすぎてはいないか?もしくは意図的ではないのか?リスク回避のためもあるだろうが、対アメリカ向けのパフォーマンスか、大量解雇への非難回避のための措置なのではないか?

それはともかく、自動車業界は、その社会的責任という意味で、大量解雇を当然のように行ってよいものか?普段、政治に対してあれこれ口出しし、企業の社会貢献を恩着せがましくおしゃべりしているが、いざとなれば平気で切り捨ててしまう無責任さは社会的に非難されてしかるべぎだと思う。

マスコミにも一言しておこう。マスコミの最大の広告主たる自動車業界に対して批判もできないようでは、正義派ぶってジャーナリズムでございなどと言わないでもらいたい。情けない人間たちである。

政治家にも一言。前に小泉首相を亡国の輩と称したことがあるが、派遣法を製造業まで広げ雇用の安定を政治から切り捨てた罪は極めて重いと承知せよ。今の政治家諸君も、企業責任による雇用安定をすみやかに実現するよう行動せよ。

一方、国民諸君も、解雇の憂き目にあおうとあわなかろうと、被害者ぶっていても仕方がない。国民の雇用を守るために今こそ行動すべきときではないのか?などと思うのだが・・・。
 

「共同幻想論」 吉本隆明著 河出書房 1968年発行

 投稿者:雑談君  投稿日:2008年10月26日(日)11時09分22秒
  なつかしい本である。学生時代に読んで、なぜか解らぬがしびれてしまった印象が強い。今思えば、内容にしびれたというよりは、吉本の既成左翼や戦後知識人への批判と自立した思想を自ら創り出すといった姿勢にしびれたといってよいのだろう。

吉本自身が語るように、戦後日本の思想状況というのは極めてお粗末なものであり、そこには、ごく少数の知識人を除いては思想的営為のかけらも見当たらず、戦争責任についての明確な結論を避けて、アメリカ的な自由主義や個人主義への無責任な信望だけが存在するといった状況であった。

戦後知識人も、アメリカやヨーロッパの学問的・思想的な成果を密輸入し、あたかも己の営為であるかのごときに発表はしたが、もともと根無し草であったために単なる流行の知識以上のものではなかった。己の思想や日本的状況を踏まえたものではない以上、ブームが去ればあっという間に本人も回りも忘れ去るといった具合であり、当時の学生たちがそんな偽物知識人に愛想をつかし、吉本に走ったのは当然と言えば当然のことであった。

ただし、吉本の無謀とも思える自立思想の構築につきあうには、その射程の長さにも知的営為の困難さにも耐えられないと感じ、大学を卒業するときに吉本思想を封印したまま、既に35年余が経過してしまった。

今、改めて「共同幻想論」を読んで感ずることは、その後の日本の思想状況は当時から一歩も前に進んではいないし、むしろ、もっともっと悪くなっているということだ。

知識人たちは、己の思想を磨くことを放棄し、単なる情報提供者になりさがり、かわりに質の悪いマスメディア人間たちが大衆主義という思想にもならない思想を振り回し、世の中を混乱させてばかりいるといった状況である。特に、今のマスメディア人間の中には、当時、「反権力」を掲げた左翼崩れの人間たちが多く入り込み、己の思想的な総括もせず、無責任な批判し放題していることだけは許されない気がする。

一方、吉本思想はどうなったのかを考えると、これまた無視され消えていく運命にあるように思う。私自身、今の思想界の状況を十分知りえていないので確かなことは言えない。私が知る限り、ときたま吉本エピゴーネンみたいな輩が出てきて、個人幻想やら共同幻想なんて概念を勝手に振り回しているのは承知しているが、とても読むに耐えないものである。

吉本本人も、なにぶん高齢になったため、その思想的営為というものはストップしているように思うが、どうだろうか。これまた、不勉強であるので確かなことは言えない。

それはそれとして、「共同幻想論」は、日本的な意味合いでのポスト・ポストモダニズムの一論考としてもっと評価されてよいように思う。ひとつは、言語論的なアプローチから幻想領域をそれ自体として扱いうることを示した点であり、また、個人幻想、対幻想、共同幻想の3領域の存在とそれが生じるメカニズムを根拠づけた点である。

そして、日本的なという限定をつけるが、共同体のタブー(禁制論)から法・国家(規範論・起源論)へと続く共同幻想の道筋は十分に説得力を持つように思うし、その際使われた「遠野物語」や「古事記」の解釈にしても高水準なものと思える。

ただ、「共同幻想論」が起源論で終わっていることが象徴的であるように、幻想としての国家の行く末については答がない。吉本流の国家論では、共同幻想を軸としているため、あくまで共同体意識の延長線上に国家が想定されており、取り扱うことができる思想はナショナリズムまでであり、言語や文化・習俗が異なる他国との国際関係幻想というものは扱うことができないように思う。

現在の状況は、経済を中心に国際関係が発達しており、個人としても世界と直接対峙するような場面が生じている中で、人々が従来の国家を踏み越えることができるのか、はたまた、中東アジアのイスラム諸国のように民族的な、又はナショナルな思想にこだわり続けるのか、そこは大きな思想的な課題であるように思う。

もし、人々の幻想領域の中で、共同幻想部分が希薄化していくことを想定するならば(おそらく吉本も国家はいずれ廃絶される方向にあると見ているのだろうが)、いや想定というよりも現実に生じていることだが、やせ細ったグローバリズムという共同幻想は、民主主義という先進国の思想の押し付けや市場経済主義といった殺伐なものになってしまうのではないか。

いずれになるにしても、吉本の「共同幻想論」が言語という人々の意識の疎外されたものから出発しているかぎり、国家の枠を超えた幻想性というものはその枠外にあるように思う。
 

司馬遼太郎の視点-南北朝時代

 投稿者:雑談君  投稿日:2008年10月15日(水)23時02分46秒
  「手掘り日本史」には、時代時代を特徴づける司馬の示唆があちこちに散りばめられている。南北朝の時代についても「つまらぬ時代」として表現されているのを見て、なるほどと思わず頷いてしまった。

かねてから、南北朝の時代を胡散臭く感じていて、後醍醐天皇やら楠木正成、新田義貞、足利尊氏などは、社会の安寧など眼中になく、庶民を無視した私闘を繰り返したにすぎないのではと思っていたが、はからずも、司馬の視点も同様であった。

司馬は、南北朝時代を、役者がそろつたドラマチックな時代のように見えるが、実際には、およそつまらない時代だとしている。後醍醐天皇は建武の中興などという訳のわからぬ古代政治を復活させようとして低脳政権を作り、そんな箍がはずれた社会の中で相続争いをする地侍に対して足利尊氏はその本領を安堵するという行為を通じて南朝に対立しているが、抗争はあくまで、相続争い、利権争いの私闘にすぎないとしている。

それを、江戸時代の水戸史観に基づいた明治以降の教育により、南朝が極端に美化されたために、歴史が歪められて伝えられたのだとしている。

一見、美しい歴史と感じられるものも、実のところ、社会的混乱期に生じた馬鹿げた歴史であるということもあるのだと肝に銘じておく必要がある。
 

「手掘り日本史」 司馬遼太郎著 文春文庫 1997年発行

 投稿者:雑談君  投稿日:2008年10月15日(水)22時10分54秒
  この本には、司馬遼太郎の歴史についての考え方が詰まっていて、大変参考になる。あくまで、歴史小説を書くときの姿勢とか方法について述べているのだが、そこには司馬が歴史をどう考えるか、また、歴史の中の個人をどう考えるか、日本文化と日本人の有り様を歴史的な事実の中からどう紡ぎだしてくるかといったものが語られている。

司馬の方法とは、その苦労はともかく、何も難しいものではない。まず、歴史的な事実の収集からはじめ、次にそれを日常のレベルで実感するために、現地踏査をする。そうする中で、そこに生きた人物像が浮かび上がるまでじっと待つというものだ。

司馬は、時代時代の社会制度や習俗、事件、人物についての豊富な知識をベースに、歴史上の人物を単に思想や英雄的な行動の評価から記述するだけでなく、日常の生身の人間として如何に生きたかを同時に追求し、記述することにより、その人物の実存性とリアリティを確保する。

この手法は、司馬の小説のおもしろさに繋がるとともに、歴史上の人物と我々とを個人の実存の観点から繋げてくれ、歴史から学ぶということ真の意味合いを教えてくれる。

<追記>
ここまで書いて、ふと気づくと、この本の解説(企画者である江藤文夫)に歴史への視点についての記述があったので、引用しておく。

「歴史上の諸事実が、私の歴史を見る目の“対象”にとどまるかぎり、諸事実は私の主観の中にとりこまれて、それ自体の生命と呼吸を失い、そのとき私自身も、歴史の流れのなかで、自身の立つ位置を失っている。
現代的視点あるいは現代からの遠近法とは、私の見る目を軸に歴史を構成するということであるが、逆に、諸事実を私の視野から解き放って、個々の事実がそれぞれに、諸事実間の相互の連関を前提にしつつ、自己の“存在”を主張し始めるときに、また諸事実のそうした相貌を私が見るときに、歴史を見る私自身も、諸事実とひとつながりの流れのなかに、自身を立たせることができるのだろう。現代的な視点とは、本来、こうした目を指して言うのではないか。」

なるほど、うまく表現するものだ。つまらぬ史観で歴史を裁断するのではなく、歴史的な諸事実が自ら語りだすのを待ち、それを連関の中で捉え、受容する姿勢こそが大切なのだと思う。
 

「新書アフリカ史」 宮本正興・松田素二編 講談社現代新書 1997年発行

 投稿者:雑談君  投稿日:2008年10月 5日(日)22時51分32秒
  アフリカについて知りたいと思っていたが、今回、本屋でこの本を偶然見つけたので読んでみた。専門書はともかく、アフリカについて書いた本など余りないように思う。それだけ関心が薄いということなのだろうし、日本人の視野にアフリカが入っていないということなのだろうと思う。

もちろん、日本からのODAが投入されていることや、国連常任理事国入りの問題でアフリカ諸国へ働きかけたことなどの話題はあるものの、やっぱり、アフリカは日本人にとって関心の薄い国であることには変わりがない。

この本を読んでみて、アフリカにとっての近代化とは何だったのか改めて考えさせられたし、ヨーロッパの資本主義の発達にとってのアフリカの位置・役割というものについても考えさせられた。

この本を執筆した人々は、西洋的な意味での近代化ではなく、アフリカ独自の発展の仕方があるはずだという意図で書いているが、それが何なのかは示し得ていないように思う。独自の文化、独自の統治形態を志向すべきとしているが、グローバリズムの巨大な渦の中で、アフリカは相変わらず木の葉のごとく不安定に揺れ動いているばかりだ。

それはともかく、今は、この本から知りえた事実のみ記しておこうと思う。いずれ、アフリカそのものやアフリカと日本の関係性について触れる機会もあるだろうから、そのときの材料として書き留めておく。

まず、奴隷貿易についてである。アフリカにおける本格的な奴隷貿易は16世紀から始まり19世紀半ばまで続いたという事実は忘れてはならないだろう。植民地での労働力不足を補うため、アフリカから大量の奴隷がアメリカやアジアへ送られたことはヨーロッパ資本主義の内実を知る上で見過ごすことができない。それは単なる経済関係としてだけでなく、資本主義を支えたイデオロギーの欺瞞という意味でも検討される必要があるのだと思う。

同じく、ヨーロッパ諸国のアフリカの領土分割にも注目する必要があるだろう。20世紀にまで及ぶ侵略と支配のために、少なく見積もっても数百万人の殺戮をしてきた事実を忘れては今のヨーロッパを語れないだろうし、自由主義社会の持つ残虐性に目をつぶることになると思う。

一方で、アフリカ自体をどう考えるかということにも関心を持つ必要がある。アフリカの自然は苛酷であり、その全てが発展すべきと考えるのは愚かしいことだろうし、その自生的な発展を促すための間接的な支援を行っていくことが肝要ではないか。アフリカ内部には、カナダのイヌイットのように自然との直接的な交渉の中で生きていく民族もあるだろうし、地域の資源や特性を活かして近代化を図り、豊かさを求める地域もあるだろう。それを一律に論じては何もまとまらないように思う。

ただ、何千万人の飢えた人々が存在するからといって、人道的な立場から食料をはじめとする物的な支援を慢性的に行うことは、ほんとうの意味での支援となっているのか考える必要がある。アフリカの人々の主体性を失わせている結果を招いていないのだろうか。

いろいろな疑問が湧き出るばかりで今の段階では結論めいた話はできない。今後、また触れる機会があるだろうと思うので、今日はここで筆を置く。
 

アメリカ経済の行方

 投稿者:雑談君  投稿日:2008年10月 5日(日)09時50分42秒
  このところのアメリカ経済の動きが気になるところである。昨年のサブプライムローン破綻から始まった金融危機は、大手金融法人の不良債権処理のために約75兆円という巨額公的資金の投入に至って、なお予断を許さぬ状況が続いている。

一連の動きが、アメリカ経済の自壊していく姿として見えてくるのは私だけだろうか。マスコミの報道など見ていると、金融危機は金融危機であって、実体経済とは無関係のように扱われることが多く、それは一過性の問題のように報道されているように思う。

確かに、株価の低落に一喜一憂しても始まらないし、大手の金融法人が破綻しようと、それはプレーヤーの交代でしかないのだが、その裏側で実体経済へ大きな影響を及ぼしているのである。

まず、信用収縮によって紙くず同然となった不良債権をどうするかという問題がある。アメリカ政府は巨額な公的資金でこれを買い取るとしているが、その値段によっては再建もままならず、関係している更に多くの金融法人が破綻するだろう。それに、これら債権をファンドとして財産運用している投資家も大きな損害を被ることになる。

このことが、金融機関を資産保全に走らせ、実体経済の担い手たる企業等への融資を減少させることになり、結果、企業活動を萎縮させることになる。それは単に、設備投資とかだけでなく、運転資金さえも確保できない状況をもたらすことになる。

また、こうした負の連鎖は、供給側の問題だけでなく、所得の減少や雇用の悪化をもたらすことで、需要側にも大きく影響し、消費マインドを著しく冷やすことにより、経済全体の負の連鎖として長く続くことになる。

アメリカ経済は、果たして、この負の連鎖に打ち勝つことができるのだろうか。私にはできないように思う。もともとアメリカの経済政策は、自国を世界の金融センターとして機能させ、その利鞘で豊かさを確保することに力を入れてきた関係で、生産という実体経済の場面では国際競争力もなく、弱体化している。このために金融システムが壊れると同時に生産場面の息の根が止まるように思える。それはGM等の自動車産業を見れば解ることである。

そればかりではない。サービス産業等の第三次産業も停滞し、アメリカ国内に大量の失業を生み出すと同時に消費マインドが極端に冷え込むことにより、生産から消費、もちろん輸出や輸入も含めて壊滅的な打撃を被るのだろうと思う。

そんな中、象徴的な出来事が起こった。公的資金投入法が米議会下院で否決されたことである。その後、預金者保護についての修正を経て可決されたものの、あの時点で世界恐慌が起こりかねない状況にあったにも関わらず米国国民はNOのサインを出したのである。そこには世界経済を牽引してきた国の自負もなければ責任もなかった。ただ、大衆からの不満をそのまま経済政策に持ち込んだ愚かさだけがあったように思う。

私は、このことをアメリカ的な自由主義の破綻として捉えている。一方で、個人の自由をわがままに主張する米国国民(大衆)がいて、他方に、国境を越えて金融経済活動する企業等がいて、米国という国家、ナショナルなアイデンティティが失われた結果なのだと考えている。

これまでアメリカは、自国の行動に、それは経済のみならず、政治、軍事、思想、文化も含めてという意味だが、世界性という意味づけをして成功してきたが、イラク・アフガンでの失敗やロシア・EU・中国の台頭、今回の経済破綻により、その世界性が単なる幻想でしかなく、米国というナショナルアイデンティティそのものが虚妄であったことが明らかになったのではないか。

今回の米国の経済破綻は、それ自体の回復が困難であると同時に、そうした精神的又は思想的な面での破綻からの回復という意味では大変難しい状況にあるように思う。
 

着せ替え人形のように大臣を換えるのはやめたらどうか?

 投稿者:雑談君  投稿日:2008年 9月28日(日)22時05分39秒
  中山国土交通大臣の辞任の件である。「またか…」というのが感想である。やれ不祥事だ、やれ問題発言だ、やれ事務所費問題だ、なんてことで、これまで何人大臣が交代したのか?問題が出る度に、野党はそろって辞任要求を出し、首相へは任命責任を問うというパターンだ。マスコミも同様に辞任を促すような報道をバンバン流す。<問題発言→辞任要求→あっさり辞任>というのが恒例行事のように繰り返されるが、終いに大臣をやる人がいなくなるのではと心配になるほどだ。

もともと政治家の皆さんは、そんなに品行方正でもないし、発言について責任が負えるほどの緻密さもないのだから、まっ、粗捜しをすれば、誰もが明日には辞任が待っているようなものである。そんな人たちが大臣になっているのだから、多少の暴言・失言には目をつぶってやったらどうだろう。

そうでなければ、政治家自身が萎縮して何も発言できなくなるだろうし、毎回こんなことに振り回されていては、本来の政治課題というのが議論されないままになってしまう。

選挙前であることを差し引いても野党の追及はエゲツナイと思うし、マスコミも、混乱を煽り立てているように思われる。もし、大臣の問題発言を云々するのなら、まず、そんな政治家を選挙で選び続けてきた選挙民こそ反省すべきなのだ。女性問題で引退したはずの国家議員が再び選挙に勝って返り咲いたりするのをどう思うのだろうか。
 

「ジャーナリズム崩壊」 上杉隆著 幻冬舎新書 2008年発行

 投稿者:雑談君  投稿日:2008年 8月23日(土)23時17分10秒
  日本のマスコミの実態を暴いた書である。「記者クラブ」という日本特有の組織を中心にして、大手マスコミが政治や行政と癒着して、知りえた情報を流さないこと、また、雑誌やフリーの記者、外国人記者を締め出して情報を独占していること、仲間内の誤報道に関して甘く、決して責任を取らないことなどを挙げ、およそジャーナリズムとは程遠い存在であることを告発している。

書き込まれた内容は、いちいちその通りであり、実例を紹介する場合も当事者の実名を挙げるなど、批判としてもかなり手厳しい内容である。

今の時代に生きる人々にマスコミの酷さを周知する意味で、それなりの意義がある本ではあり、その勇気は評価したい。

ただし、その批判方法はアメリカのマスコミとの比較での批判であり、あくまで相対的なものでしかない。こうしたやり方は、一方で、如何にも真っ当なマスコミ・健全なジャーナリズムがあるように人々に思わせる嘘をつくことになる。

たとえアメリカだろうと何処だろうと、現代のマスコミはジャーナリズム的な正義とは程遠い存在であり、そればかりか、コマーシャリズムというフィルターで真実を捻じ曲げて、大衆を誑かす犯罪的な役割を果たしている。

そうした根本的なところでマスコミ批判をせず、ただ記者の有り様だけが問題であるような書き方をしているところは納得できないところである。日本にはジャーナリズムなど最初から存在しないし、存在しない以上崩壊もないのである。

著者には、大手マスコミの批判も良いけれど、雑誌やフリーランスの記者の酷い実態にも批判の矛先を向けるべきだと言いたいし、そんな世界にどっぷり浸かっていることへの自己批判もあってしかるべきだと考えている。
 

カリカチュアとしての北京オリンピック

 投稿者:雑談君  投稿日:2008年 8月16日(土)00時50分7秒
  日本のマスコミが「平和の祭典」などと大騒ぎしている北京オリンピックであるが、ひねくれ屋の私には、なんとも滑稽な政治ショーとしてしか見えないのだが・・・。

開会式の偽物ぶりも如何にも中国らしくて面白いのだが、ブッシュ大統領やサルコジ大統領などの開会式への出席も面白い。開会前は人権問題がどうの、環境問題がどうのなどと欠席を匂わせていながら、チャッカリ出席し握手など交わす姿を見ると、今の国際関係のおぞましさをそのまま反映している。

福田首相の出席は影が薄かったが、それでもギョウザ問題で中国で逮捕者が出たなどという情報を流して日中首脳会談を精一杯アピールしたところが、なんだかとても悲しく思える。ギョウザ問題でお茶を濁され、三等国扱いされてもニコニコしている首相の姿こそ哀れというものだ。

それにしても、中国の北京オリンピックへの意気込みはすごい。偽物だらけと言われても、その威信をかけて豪華に、かつ、盛大にオリンピックを演出している。

そんなオリンピックを斜に構えて見ているのだが、自転車のロードレースではコースの周辺部の風景にも気を使い、花は植えてあるわ、ペンキ文字の注意書きは消してあるわ、テレビ映りを気にしてきめ細かに対応しているのだ。

今、中国としては、社会的な格差が広がる中で、新たなナショナリズムの醸成や経済成長の成果をアピールすることで、国家としてのまとまりを模索しているのだろうし、それは半ば成功しているようにも思う。

それに比べ我が日本はどうだろう。三等国まで地位が低下したせいか、男子柔道はその自信を失い、主力選手が軒並み一回戦で敗退し、目を覆うばかりだ。女子柔道は、そんなことはお構いなしにがんばっているところが面白い。

まっ、いろんな意味で、北京オリンピックはおもしろいが、マスコミがこぞって流している、無意味な日本応援キャンペーンには乗らないでもらいたい。個々の選手のがんばりには頭が下がるが、それが画面に移された瞬間から変質していることに気づくべきである。「感動をありがとう」などと間違っても言わないでもらいたい。
 

原油高対策について

 投稿者:雑談君  投稿日:2008年 7月20日(日)09時41分11秒
  現在の原油高騰を受けて、世情様々な議論を呼んでいる。エネルギー資源の高騰は、他の物価高と比べ、その影響力の大きさを改めて感じている。ガソリンや軽油はもちろんのこと、日常生活に直接関わる食料や電力・ガス料金にまで及ぶなど、庶民生活も大きな痛手を被りはじめている。

一方で、企業活動も、エネルギー・原材料の高騰を受けて、生産コストの上昇を抑えがたく、今後の消費の冷え込みを想定すると、かなり難しい舵取りを強いられることになろう。

で、今後の原油価格の見通しはどうなのだろうか。ニューヨーク先物市場での価格は1バレル140ドル前後という値段は、前年の倍程度の値段であり、明らかに異常な値上がり幅である。株安を受けて投機マネーが石油市場になだれ込んできたことによるものだが、それにしても、その背景には中国、インド等の新興国の経済発展に伴う底知れぬ需要が存在していることも事実である。

まー、単純に、今の実体経済に見合った値段を100ドル程度と見積もれば、今後の原油高対策の方向も見えてくるのではないか。そうして考えると、今、政治家やマスコミが騒ぎ立てている原油高対策が如何に虚妄に満ちたものであるかが理解できると思う。右往左往するのではなく、いずれ100ドル前後に落ち着くものとして原油高への対応を考えたらどうか。

まず、先日行われた漁業者の一斉休業を受けて、農林漁業者に対して直接燃料代を補填するような補助制度創設の議論があるが、もともと生産性が低く業務の改善努力の足りない業界への補助は慎重であるべきだと思う。もし、補助を出さざるを得ない状況であるならば、それは期間を限定して行うべきである。期間中に経営努力できなければ見捨てるしかないのだろうと思う。

第一次産業については多少同情すべき点があるので、いささか甘い物言いをしたが、第二次・第三次産業への補助や減税は絶対に避けるべきである。これらの産業は、基本的には世界全体にわたって同一の条件で競争することになるのだから、自主的な解決努力を求めるべきであろう。法人税減税などを叫ぶ人々もいるが、そんなものは論外である。

1バレル100ドル程度の原油高であれば十分に対応できるだろうし、しなければならないと考える。

それでは、ことさらに原油高対策などやらなくて良いのかといえば、そうではない。消費者向けの対策だけは打っておかねばならないだろう。低・中所得者層の消費が落ちこむことなれば、彼らの生活そのものが立ち行かなくと同時に、日本経済そのものが経済不況の長いトンネルに入ってしまうこととなる。

ただし、これも原油価格が落ち着くまでの期間(長くても2年程度)に限定して行うべきであり、その方法については減税によることが良いのだと思う。

今回の原油高は、世界同時不況の到来の前触れみたいなものだから、いずれにしても、個人も企業も政府も、一定の痛みに耐える覚悟が必要である。そのことが解らずに、ただただ救済をどうするかなどと議論している政治家やマスコミは信用しないほうがよい。
 

竹島問題について

 投稿者:雑談君  投稿日:2008年 7月13日(日)11時46分44秒
  韓国と領有権を争っている竹島に関する「中学校社会科・新学習指導要領の解説書」での記述について、現在、韓国との間で議論が交わされているが、最終的に竹島について記述はするが、「我が国固有の領土」という表現は避けるということで落ち着くようである。

竹島が我が国固有の領土であると主張しておきながら、それを学校教育で教えることを避けるとは何ごとか。日韓双方の歴史を見ても日本の領有は明らかであるし、サンフランシスコ平和条約での放棄地域に竹島が入っていないことは明らかであるにも関わらず、韓国の実効支配を是認するような中途半端な妥協はすべきでない。

もし、公正を期したいというのなら、竹島が我が国固有の領土であることを明確に表現した上で、韓国が領土権を主張し実効支配している旨を記述すればよいのではないか。

担当は文部科学省なのだろうが、沖縄の集団自決に関する日本軍の関与についても二転三転し、あげくに歴史を平然と捻じ曲げてしまうようなことを平然とやってしまう役所だから信頼できない。

教育というのは、その時々の政治や社会事情で容易く変えるようなものではない。今からでも遅くないから、竹島について明確な記述をするよう再考してもらいたい。
 

北朝鮮へのテロ国家指定解除について

 投稿者:雑談君  投稿日:2008年 6月29日(日)10時47分11秒
  アメリカは、北朝鮮の「核計画申告書」の提出を受けて、テロ国家の指定解除を議会へ通告したという。まー、アメリカがやることだから、日本人である私がけしからんと言ったところで、どうしょうもないが、それにしても、今回の一連の動きが朝鮮半島の非核化につながるとはとても思えない。

政治、特に外交は「調整」と「プロセス」が大事であって、感性や倫理だけで物言いするのは間違いだというのも解らないでもないが、一方で、単なるパフォーマンスという側面も大いにありうるということを考えると、今回の動きは後者の方であるように思う。ブッシュ政権の悲しいパフォーマンスなのだと思う。

アメリカという国は、ベトナムでも、イスラエルでも、アフガンでも、イラク、イランでも、ことごとく恒久平和の名の下に介入し、混乱だけを残して常に撤退していることは誰もが解っている。

アメリカのことはともかく、日本が拉致問題という国家の存立を揺るがす課題を抱えながら、アメリカに追随して、経済制裁の一部解除を表明したのはどうにも納得はできない。

情けないかぎりだ。日本政府の主張は、六カ国協議の枠組みの中で非核化を先行させたまでで、拉致問題を決しておろそかにしているわけではないとし、現に、これまで停滞していた北朝鮮との二国間協議が始まり、北朝鮮から「拉致問題は解決済み」ということを取り下げさせ、再調査を約束させたとしている。

この政府の主張のどこに真実があるのだろうか?拉致問題が進展したのか?拉致問題が解決済みでないことは議論の前提であって、何らの進展とも言えないし、再調査にしても、これまで再調査といってなんか進展したことがあったのか?今回の再調査はこれまでのものとは違っているのか?今回の再調査の約束も、北朝鮮の誠意のないこれまでの態度を踏襲する以上のものでないことは確かであるにも関わらず、経済制裁の解除を行うというのはアメリカに追随したと言われても仕方ないではないか。

拉致問題の本質は、白昼堂々と日本領土から日本人が奪いさられたということで、これは日本国家の存立基盤である国民の生命安全を脅かされたということである。
本来ならば、交渉して帰国が実現できなければ軍事手段に訴えてでも解決しなければならない重要な事柄である。もちろん、そう安直に考えてはならないが、それにしも本質は、それほど重大な事柄である。

それにしても、日本国家の基本的な態度としては、北朝鮮の国家犯罪である日本人拉致を進めた金正日政権の存在を許してはならないし、ましてや、国交正常化などとは絶対に言うべきことではない。日本国家としては、金正日政権が続く限り、少なくとも日本の経済制裁を解くべきではないし、世界にその旨をアピールしていくべきである。

そうした中で、六カ国協議や国連の場面での妥協はあってもよいが、日本固有の姿勢を捻じ曲げるような妥協を促されるならば、その場から退場すべきであると考える。
 

NHK検証番組「NHK職員株取引問題」について

 投稿者:雑談君  投稿日:2008年 6月17日(火)22時54分37秒
  NHKの検証番組「NHK職員株取引問題-第三者委員会調査報告を受けて」を観た。例のNHK職員による株のインサイダー取引事件の検証番組である。

評論家の立花隆氏が言うように、放送自体徹底した検証番組とはなっておらず、第三者委調査報告書に記載されているNHK報道部職員のひどい勤務態度や組織としての無管理状態、株取引の実態調査のための委任状提出拒否者943人の存在などはNHK側(検証VTR)からの紹介はなかった。

その不徹底ぶりは批判されてしかるべきであり、不祥事の背景となった組織体質や職員の職業倫理欠如の実態はより明確な形で放送すべきだし、再発防止策として具体的に何を行うかをNHK自身が公表すべきであると考える。再度、検証番組を組んで、経過報告をすべきだと考える。

それはそれとして、今回のNHKの措置は高く評価したいと思う。これまで、報道関係者の不祥事はまともに公表されたことがないからだ。報道の自由を隠れ蓑にして事実を隠蔽したり、報道機関同士が馴れ合いで身内のことは深く追求してこなかったからだ。

今回のNHKの措置は不十分ではあるが、不祥事を起こした者の実名を公表したし、第三者委員会による調査を行い、これも公表している。また、検証番組を放送し、曲りなりにも組織としての改善方向を示した。このことは、これまでなかったことで、この姿勢は褒められてよい。

他の報道機関(民放や新聞社など)も、このNHKの姿勢や措置を取り入れ、自らの不祥事が起こった場合には徹底した検証と処分、改善策を講じ、それを公表するよう強く要望する。
 

彷徨える大衆

 投稿者:雑談君  投稿日:2008年 6月15日(日)21時50分35秒
  最近の世の中を見ていると、日常の実生活感覚を失ってしまった人が余りに多いことに今更ながら驚く。

私など、日々あくせくと仕事をしていると、いやでも人と付き合わざるを得ないし、家庭にあっても、女房と日々の暮らしに振り回されるているといった具合で、実生活にどっぷりとはまっているのだが、そうした人間から見ると、世の中の現実とは無関係に生きている人間が異常に増えているといった感じなのだ。

例をあげれば幾らでもあげられるように思う。今回の秋葉での無差別殺人事件の犯人などもそうである。会社でおもしろくないことがあっても、稼いで食わねばならないという意識で皆がまんする訳で、そんなことでいちいち切れてしまっていては幾つ身体があっても足りない訳で、実生活感覚に乏しいと言わざるを得ないのだ。

仕事場では必要とされていない。親からも期待されていない。恋人もできない。自ら働きかけもしないでいて、そうなるのは当たり前ではないか。人間は、いくら仕事に恵まれ、家族に恵まれていたところで元来孤独であるということが解っていないのだ。自ら現実に働きかけなければ実生活を生きることにはならないことが解っていないのだ。

若者だけではない。高齢者もそうである。後期高齢者医療問題でも、年寄りいじめをするななどと吹聴している高齢者を見るとがっかりする。現実の問題というのは国民医療費が巨額になり、特に高齢者医療費が極端に膨れ上がって、保険制度自体が崩壊の危機に陥っているということなのだ。現実の問題に答えも出せずに、ただただ感情的に年寄りいじめなどと騒ぎ立てることは無責任としか言いようがない。

人間はいつか死ぬものである。高齢者にとって、これは現実の目の前にある問題である。これとまともに対峙もせず、医療費問題に大騒ぎするのはやめたらどうか。人間は生まれてから死ぬまで孤独である。できうれば他人に迷惑をかけずに生きたいし、迷惑をかけるにしてもそれは最低限にとどめて、最後まで自分の力で生きたいと思う。そういう現実感覚から高齢者医療問題を議論するのなら大いに議論したらよい。だが、実際の議論はこれとは程遠いものだ。

若者や高齢者、いや中高年の人たちも含めて全ての世代の中に、こうした現実感覚を失った人々が多く出現している。私は、これはマスメディア社会特有の現象なのだと思う。テレビや新聞、インターネットなどの様々なメディアから発せられる大量の情報は、人々の現実生活の実感覚を失わせ、本来そこから編み出される生き方や思想、意志などというものを奪い去るのに十分すぎるほどの量と機会を持って人々を圧倒している。

マスメディアの提供する情報は、現実のごくわずかな一部を写し取り、それを映像や音声、文字という信号に変えた非現実・幻想以外の何者でもない。少なくとも生身で生きる人間にとって直接関係するものはひとつとしてない。しかながら、そんな幻想世界に身を置き生きている人がずいぶんと多くなっているように思う。大衆は彷徨っている。
 

朝日新聞の社員が傷害で現行犯逮捕

 投稿者:雑談君  投稿日:2008年 6月15日(日)16時59分47秒
  朝日新聞のグループ戦略本部長補佐が乗車禁止場所でタクシーに乗り込み、断られて運転手を殴り、傷害の現行犯で逮捕されたという。

酒を飲んでいたとはいえ、社会の公器たる新聞社の幹部職員が暴力行為に及んだことは厳しくその責任を問われるべきであろう。本人は、もみ合ったが殴ってはいないと主張しているようだが、状況を考えれば、非は乗客側にあることは明らかだ。

いつも言うことなのだが、政治家や公務員と同様、新聞社などのメディア関係者も公的な立場に立つべき存在であるのだから、その言動や振る舞いには高い倫理性が要求されている。

今回のような不祥事が起こった場合、新聞社として、発生の経緯と事件に関する責任の所在を明確にした上で、厳正な処分を行うべきであると考える。

朝日新聞は、刑法上の措置を待つのではなく、自ら本人に事情調査し、その結果と処分内容を公表すべきであると考える。
 

悲しすぎる現実

 投稿者:雑談君  投稿日:2008年 6月11日(水)00時02分41秒
  秋葉原の無差別殺傷事件のことである。報道で見る加藤容疑者の顔立ちはおとなしそうでまじめそうな印象である。携帯サイトに残した記録からは、殺人を計画していながら意外にあっけらかんとした書きぶりであることに驚く。記録からは、彼の人間関係の希薄さや孤立振りが窺われるが、それさえも懊悩の深さは感じられず、あくまで平板なもののような気がする。

彼にとっての殺人は、彼が操るトラックが犯すものであり、彼の持つナイフが実行するものであったのだろうと思う。彼は殺人者というよりは殺人の管理者であったに過ぎないように思うのだ。少なくとも彼はそう意識していたように思う。「誰でも良かった」というフレーズに彼は賛同の意を表しているが、これは言い換えれば、殺人の相手となる人物をマネキン以上には考えていなかったということだと思う。彼は、ただ自己意識のスイッチを切ってやみくもに走り出せばよかったのだろう。

それはまた、彼にとって、まるでゲームの世界の出来事のように起こった?のであって、彼が能動的に現実と関わったのではないだろうと思う。殺人までの一連の過程の中で、彼が現実と主体的に関わったのは、ワイドショーでの話題を独占するという馬鹿げた希望を根拠に、福井まで密かにナイフを買いに行き、沼津でレンタカーを上手に借りただけだったのではないか。

彼にとって、人間関係が希薄だっただけではない。彼にとって現実社会そのものがモザイク画のように平板でうつろなモノとしてしか感じていなかったのではないだろうか。

彼が福井にナイフを買いに行き、親切な店員に出会ったとき、人間の暖か味を感じたことが記録されているが、彼の情感というのは、それほど薄っぺらで頼りないものだったということだろうと思う。
 

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